第6話 天国と偶然のレシピ

最終更新: 2018年7月9日





「今年はとても豊作なの。摘みにおいでよ。」


旧友からの突然の嬉しいお誘いに思い立ち、切符の手配する。

この瞬間から旅は始まる。

はりきって早朝に、パリを飛び出す。



一路、南西へ。




ボードゥルヴィル(Baudreville)という街を通過する頃には、いつものように真っ白な大きな羽根たちが姿を現わす。




ゆっくりと風を受け止め、弧を描く姿はとても平和的。






それらを目にするとき、世界中が風力だけで電気がまかなえる日が来ることを、静かに、そして強く願う。




ぐんぐんとコマ送りに過ぎ去る木々と風景。

見知らぬちいさな村と畑を駆け抜けて。







車窓を額縁に見立ててみると、それは印象派が描く叙情的な風景画のよう。




車窓の景色を眺めながらのお供は、Otto A. Totland の「The Lost」を選んだ。

音のかけらが耳に忍び入った瞬間から、目の前にある全てが、たちまち映画のワンシーンのように移ろうから不思議。


彼の紡ぐ音は、心の奥底に秘めた忘れかけた感情を優しくすくい取り、日常のせわしなさで絡まった気持ちをゆっくりと時間をかけて解いてくれる。


このように移動時間に愉しむのもよし、またはお気に入りの椅子に身を落ち着けて、花瓶にいけた花の成り立ちや、蝋燭の炎を眺めながら、とりわけ雨の日に彼の音を静かに聴くのも悪くない。

ひとたび目を瞑って彼の音色を聴くと、彼が暮らしているというノルウェーの風景が脳裏に浮かぶ。その街にたとえ訪れたことがなかったとしても。


音楽は、日常生活の中でたとえ数分の間ですら、空想の旅に連れて行ってくれる。

欠かすことのできぬ人生の大切なパートナー。




車窓の風景に合う良質の音楽と共に、額縁即興映画を鑑賞しているうちに、あっという間に時間は過ぎ去る。


ほどなくしてオルレアン(Orléan)駅に着くと、迎えに来てくれた友人の笑顔があった。

彼女のオリーヴ色のジープに乗り込み、母なるロワール河を渡り、お城を横目に田舎道をぐんぐん進んで、友人の暮らすメズィエール(Mézières)村へ。





黄金色の大麦絨毯の隙間から顔を出すコクリコの花。

ふんわりと、なだらかな地平線が目の前に広がる。

この場所には幾度となく訪れているけれど、毎回この風景を眺めるたびに、ここは天国かと思ってしまう。





日々、色を変化させる自然。

この瞬間にしか見ることができない色彩だけが、いま目の前にある豊かさ。






風がそよぐたびに、麦とコクリコが寄り添い合う。










カサカサカサ サラサラサラ


という音だけが、村にこだまする。











友人の家の前に広がる豊かな地平線は、季節によって表情を変え、ここに来る時はいつのときも気持ちを安らかにしてくれる。

去年にメズィエール村を訪れた時は、ここは麻畑だった。

毎年、作物を入れ替えて土壌を守る知恵。



もう一つの天国はここに。

今回の旅の目的は、友人が所有する広大な敷地にたわわに実る、さくらんぼの木。



足元にはシロツメクサが一面に白い花を咲かせていた。





荷ほどきもそこそこに、早速さくらんぼの枝と枝の間を分け入る。




友人とのんびりお話しながらの収穫。

時々、さくらんぼを頬張って。








既についばまれたさくらんぼは、先客の小鳥のために残しておき、濃くルビー色に熟れたのを選んで摘む。









葉っぱの緑と、さくらんぼのルビー色だけでできた世界に抱かれる。

ここに、もう一つの天国があった。

さくらんぼパラダイス。











友人の愛犬、ボースロン犬のミルティーユは、片時も離れず、私たちのそばで見守ってくれていた。








聡明で愛らしいミルティーユ。




普段なかなか会えない、気のおけない友人とおいしいものを頂きながら語らう一夜を過ごし、そして清らかに日がまたのぼる。





彼女の庭を散策。

花たちは、この時を待っていたという風情で、精一杯に咲き誇る。







そのシンプルで一生懸命な彼らの姿から、まだ肌寒い朝であっても、夏が始まりつつある知らせを存分に受け止める。










友人はお土産にと、収穫したさくらんぼをたっぷりと、そして大好物のナンセーのサブレ〈Les Sablés de Nançay〉を持たせてくれた。

このサブレは、オルレアンから更に70kmほど南下したソローニュ(Sologne)地方にある街の銘菓。







〈Les Sablés de Nançay〉の歴史は前身となるブーランジェリーを営んでいた、今から65年前に遡る。


そこで働いていた、ジャックというパン職人の「大失敗」を語らなければ始まらない。






ある日、ジャックはうっかりと原材料の配合を間違えたパン生地を作ってしまった。

そのパン生地がもったいなくてどうしても捨てきれず、翌日にお菓子の手法で少し手を加えてから、オーブンで焼いてみた。

それを常連客に味見してもらったところ、なんて美味しいの!これはどこから手に入れたお菓子なの!と感嘆されたことにより、その日からこのブーランジェリーの人気のお菓子となったという、素敵な物語が言い伝えられている。


偶然に生まれたレシピ。

彼の大失敗がなければ、存在しえなかった奇跡のサブレ。


そんな訳で、1953年以来のレシピを尊重して、昔ながらの手法のまま今も作られ続けているという。パッケージも味も、とても素朴な焼き菓子。フランスならではの香り高い濃厚なバターが大きな役割を果たしており、Sablé(フランス語で「砂」という意味)の名の如く、サラサラとほどけるような食感。

この辺りの地方を旅したときには、必ず手に入れてパリに持ち帰るようにしているぐらいのお気に入りのおやつ。




たっぷりのさくらんぼとサブレ、そして温かな友情を携えパリに戻る列車に乗り込む。




席に座ってホームに目を移すと、眩しいほどに若い恋人たちが別れを惜しんでいる最中だった。

駅での再会やお別れは、いつの時代もロマンティック。






これまでに何度観たかわからない、クロード・ルルーシュ監督の代表作「男と女」のラストシーンを、ふと思い出す。

主人公のアヌーク・エーメほどに、所作も声も、その姿も、何もかもが麗しい女優は彼女の他にはまだ、知らない。








電車で1時間すこしで、パリに到着。



さっそく珈琲で一服。

65年前に素敵な大失敗をしてくださったジャックさんに感謝しつつ、サブレをかじる。




パリに連れて帰った、さくらんぼ。

その後、どんな風に愉しんだのかというお話は、また後日に。




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