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第10話 アンティーク未来美術館

更新日:2018年8月10日




 ラマダン明けの6月、長い祝祭が続くマラケシュから抜け出て滞在した南仏にて。





 2時間30分離れた場所。


 椰子の木やオレンジの街路樹はプラタナスと菩提樹に変わり、モスクのアザーンは教会の鐘の音に取って代わる。


 何よりも、街角の銅像や石像が新鮮でつい目を向ける。モロッコは偶像がタブーとされているイスラムの国。それが意味することはすなわち、像も絵画も存在しないということ。少なくとも宗教に触れることに関しては。







 耳に入り込んでくるアラビア語のはしばし、そこここで売られるアラブ菓子。南仏に身を寄せるアラブ人たちの気配を感じながら、はちみつ色の町を彷徨う。





 前時代の名残なのだろうか、イスラム世界で唯一の“イコン” ファティマの手。北アフリカ生まれのドアノッカーは、プロヴァンスの空気に溶け込んで自分の居場所を上手に見つけている。







 リル・シュル・ラ・ソルグ(L'Isle sur la Sorgue)へは、この町を有名たらしめるブロカントの蚤の市を目指して早い時間に到着。ところが、どういうわけか曜日を間違えて。


 時計はまだ9時。予め思い描いていたのとは異なる1日が始まる。朝の眩い陽光の中、水辺に沿って歩く。気のおもむくまにまに。






 



目には見えないふたりの天使。









 イスラムの教えによれば、誰にでもどんな人にでも左右の肩にはマライカ(ملائكة)、すなわち天使がちょこんと留まっていて、それぞれその人の善行と悪行を絶えず記録しているのだという。そんな宗教観の中に長らく身を置いているせいか、すぐ隣に天使がいるようなふとした瞬間がある。


 ちょうどヴェンダースの映画の世界みたいに、人間味あふれるマライカたちがあっちへこっちへと人間たちの関心を誘っている。きっと曜日を間違えたのもマライカたちの気まぐれに違いないし、「気のおもむくまま」というのさえも実は彼らの采配によるのかも知れない。





 石造りの門構えと生い茂るいちじくの木。たたずまいに惹かれてふらり入った建物はアンティークのお店ではなく、何の因果か彫像ばかりが集められた現代彫刻の美術館だった。


 「Tissage Tressage(織り、編み)」と題された企画展。ヴィラを改装した2階建ての展示室と緑が美しい庭で、織りや編みの手法で表現した彫刻や立体作品を観てまわる。骨董の町で遭遇した朝一番のコンテンポラリー・アート。








 地下に降りると、ほの暗い突き当たりには横一列に壁に掛けられた3枚のボシャルウィット(Boucharouit بوشروط)がたたずんでいた。


 あたかも偶像が禁じられた国の偶像、宗教画が存在しない国の宗教画みたいに。





 「ぼろをまとった親爺さん」を意味するボシャルウィットは、家庭内で使うために古くからベルベルの村々で作られてきたモロッコの敷き物。近年、フランスの一流メゾンが目をつけたことから世界中で一世を風靡したそれは、モードの波が押し寄せるまでは純粋な調度品のひとつだった。


 最低限の生活用品さえもが不足がちな日常の中で、使い古した衣類を工面して織り上げるささやかな生活美。それが今や消費社会に翻弄されて。アップサイクルという言葉だけが一人歩きして、見も知らぬ外の人間のために作られる小手先仕事のボシャルウィットは、なんとなくファストファッションを彷彿とさせる。


 造形作品という仮の姿でメッセンジャーとなったモノトーンのボシャルウィットは、そんな本末転倒な今の“スーク・システム”の在り方を映し出しているかのようにも見えた。