第13話 マクトゥーブ望遠鏡

最終更新: 2019年5月2日




 モロッコに来た理由を聞かれるたびに答えあぐねていると、示し合わせたようにして、みなこう言った。それは書かれているからですよ。


 あまりにも同じことを言われ続けてきたため、しまいには自分自身でも「書かれていたから」と思うようになった節がある。







 インドのムンバイが舞台のその映画を初めて観たのは、おそらく日本からモロッコに向かう途上か、あるいはまたその逆かの、いずれにしても、どこでもないどこか空の上だった。時間を逆行する中で。それとも時間という概念が存在しない中で、と言うべきだろうか。


 人生ってきっとそういうこと。そう思わせるほどにダイナミックな、縦横無尽に敷かれた伏線の見事な絡み合い。あまりにもドラマチックで、それでいてしごく現実的な筋書きに動揺して、立て続けに2回繰り返して観た。特に、感動に追い打ちをかけるような仕掛けが隠されている鉄道駅校舎でのラストシーンは、何度観ても身震いしてしまう。映画の終わり。見落としてしまいそうなくらいに小さな文字で、「It is written」のテロップ。


 午前1時0分59秒、1時1分0秒、1時1分1秒。


 終幕に向かって静かに時を刻むホームのデジタル時計。「ヒーロー」と「ヒロイン」のダンスが終わり、そして宙吊りとなった永遠の時間。





 それは書かれていた。


 映画には終わりがあるけれども、世界とはきっと、星の数ほどの登場人物が無限に交錯する、神様が書いた永遠に終わらない長い長いひとつの物語なのだ。人の命の前にも後ろにも。







 アラビア語の「マクトゥーブ (مكتوب)」という言葉は、英語のwritten、フランス語のécritにあたる。と同時に「運命」という意味を合せ持つ。つまり、運命とはあらかじめ(神の手によって)書かれている、ということになる。


 アラビア語を国語とするこの国では、当然のことながらこういった思考回路が言語レベルで根付いているため、それがごくごく自然に価値観や感性、日常のリズム、人生哲学そのものに息付いているように思う。映画の中の主人公もムスリム。観る者は彼と共に彼の半生を振り返り、そして最後には彼の運命もまた「書かれていた」ということを知る。


 書かれている、書かれていない。それは「いる」か「いない」かの問題ではなくって、そう思うのか思わないのかだけの違いでもあると思う。信じるのであれば書かれてるし、信じないのであれば書かれてなどいないのだろう。そして、信じるならきっと読めるのかも知れないし、信じていなくたって知らない間におのずと導かれ、運ばれているのかも知れない。


 Laï laï laï laï laï laï laï, C'est écrit dans le ciel..... 

 ライ ライ ライ、それは宙に書かれている.....





 映画の原作の小説の中では、主人公が暮らすムンバイのスラム街のエピソードがしばしば登場する。住人のひとり、今は落ちぶれて「底辺」に暮らすけれども、かつては有望な天文学者だった男。ある日、彼の娘が子猫を拾ってくる。名前をつける場面で彼は娘に提案する。天文学者の一家で育っていくのだから、惑星の名前をつけたらどうか。すると、ジュピター(木星)にしよう、と娘。それに対する父親の答えは。一家で一番チビのこいつには、太陽系 水金地火木土天海冥のうち一番小さい “プルート(冥王星)” が良いだろう。






 火星が地球に大接近した日の数日後。現実の世界で、ひとつの生命が誕生した。


 かれこれ10年来の、もはや家族のような付き合いがあるヒヤート(خياط)、すなわち仕立て屋。生まれてきたのは彼ら夫婦の第三子。


 伝統的にモロッコでは、生後7日目にアラビア語で1週間を意味するウスボァ(اسبوع)という命名の儀式を執り行う。厳かな儀式というよりは一見パーティーのような華やかなもので、赤ん坊のことはさておき招待客にはご馳走が振舞われて、女も子どもも音楽に合わせて歌ったり踊ったり。







 彼が空から降りてきた時点で名前の候補は2つ。両親と幼い兄、姉との間で意見が分かれている。そんな平和で小さな「もめごと」の最中、何か日本の名前を付けてという冗談に。太陽系家族のポートレートが頭をよぎり、つい口を滑らせそうになった。待望のおチビには冥王星のブルートゥー(بلوتو)がぴったり、と。火星が接近した特別な時期に生まれたのだから、やっぱりマルス(Mars)の方が良いかしら。


 金土日月火水木金。次に会うときには、ブルートゥーになり損なった小さな彼のことを、決められた「名前」で呼ぶことになるだろう。今はまだ誰にも見えていないだけで、それはすでに書かれているはずだから。


 C'est écrit. マーシャーアッラー(ما شاء الله)。














- Music -

“C'est écrit dans le ciel” Bob Azzam











- Film -

“スラムドッグ$ミリオネア” ダニー・ボイル


- Book -

“ぼくと1ルピーの神様” ヴィカス・スワラップ

“その名にちなんで” ジュンパ・ラヒリ












- Address -

水金地火木土天冥海

〒150-0001 

東京都渋谷区神宮前 5-2-11 3F



Copyright (C) 2015 semsem All Rights Reserved.