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第20話 空飛ぶ絨毯の行き先



誰にだって不慣れな時代、というものがある。

フランス語がまだうまく操れなくて、もどかしくて、でも伝えたくて。なんていう時代があった。


パリの北北東に位置する18区、Barbès-Rochechouart駅のすぐそばの、オスマン様式のアパルトマンの重厚な鉄格子扉を開けることで始まったパリ生活。到着したばかりの数週間、友人の細い伝手を頼って、フランス人一家所有のアパルトマンに身を寄せさせてもらっていた。



パリに到着した日、家主は夏のヴァカンスで不在だったため、階下に暮らす隣人から家の鍵をもらうように言われていた。

隣人の男性はとても優しい表情をした人で、ゆっくりとした言葉遣いで家の中を案内してくれ、パリの街のことや、周辺の生活情報をひととおり説明してくれた。


パリという大都会において、隣人と家の鍵を預け合う関係があるなんて。

しょっちゅうヴァカンスで家を空けるフランスのお国事情から、今となってはそれは慣例的に行われることだと大納得するのだけども、当時はまるで田舎暮らしのような親密なご近所づき合いに感動したことを今もよく覚えている。それと同時に、これから暮らすこの街に言われなき温かさを感じたものだった。

そう、アパルトマンは小さな村みたいなものなのだ。




アパルトマンのある地区は、アフリカ人やマグレブ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア)の人たちが多く暮らす、コスモポリタン色の非常に強い土地で、仮住まい生活は刺激的以外、何物でもなかった。








グラム売りの洋服を山のように軒先に並べる店、美しい文様のカンガの仕立て屋、道端で何やら綺麗な色のジュースのようなものを売る女性、ドラム缶に網を張ってトウモロコシを焼いて売る人、タジン鍋をたくさん並べてグツグツ煮込んでいるような食堂。

とにもかくにも、聞いたこともない言語が行き交う。



そこにはまだ訪れたことのない国々の文化が、肩を寄せ合うように共存していた。











そんなエリアに暮らしていたパリ生活の初期、人生において初めてフランス人の友人ができた。レジーヌという名の、黒髪のベリーショートヘアで黒い瞳をもつパリジェンヌ。彼女はフランス国立東洋言語文化学院で日本語を勉強していた学生だったので、そんな訳で語学交換をする仲だった。まだまだフランス語がうまく操れず、なけなしの単語力を駆使したぽんこつな会話だったはずだったけれど、「語学」という共通点がお互いを近づけてくれたのだと思う。


レジーヌに、仮住まいをしている地区にマグレブの人たちが多く暮らしていることを話した時、

「じゃあ今度、マグレブの国のミントティを飲みにいこう。」と誘ってくれた。



メトロ10番線のJussieu駅に15h00に待ち合わせをして、二人して南方向に歩みを進める。

翡翠色で彩った細かな文様が刻まれた塔のようなものが、遠くに見えた。それがイスラム教においての寺院、モスクであると知ったのはこの日が最初のことだった。パリの街並みに包まれたイスラム建築は、ひときわ神々しく佇んでいた。






モスクの中に入ってみると、アラハンブラ宮殿のフェネラリーフェ離宮を小さくしたような、シンメトリーなイスラム庭園がひっそりとあり、中央を区切るようにいくつかの小さな噴水から水が細く静かに立ち上り、麗しい水音を響かせていた。午後の太陽が庭に緩やかに差し込む時間帯だったこともあり、半透明の羽衣を纏ったような柔らかな光に満ちていた。



モザイクと石膏彫刻の、柄と柄の重なり。

モチーフ同士が溶け合う不思議。

その極彩色の文様の重なりに、イスラムの美意識を全てを見た気がした。

なんと特殊な美意識を持つ国なのだろう、と。