第22話 モンスーン食堂 

最終更新: 2018年10月14日



夏はいつの間に終わってしまったのだろう。


日焼けした肌がまだうっすらと褐色であっても、季節は確実に日々移ろい、身体をすり抜ける風は決してもう夏のものではない。



マロニエやプラタナスの街路樹はすっかり色づき、はらはらと葉っぱを散らし始めた。

あんなに色鮮やかなサマードレスに身を包んでいたのに、気温が下がり始め、太陽が雲隠れする日が多くなるのに比例して、パリジェンヌの黒装束率が上昇する。

グレーのトタン屋根と象牙色の石壁で成り立った街が、雨曇の気候で全体的なトーンが物憂げなムードになると、確かに黒い洋服がしっくりと馴染む。

色選びというのは、心理的な要素が非常に大きい。気分だけでなく、気候や周りの風景によってもしっくりくる色を纏いたくなるのは、カメレオンと同じだ。




年間日照時間はひどく少なく、秋から冬にかけては雨曇の日々が続くということを知っているパリの人たちは、この時期は夏の終わりを嘆く。

太陽がひとたび顔を出したら、仕事も放り出して街角のカフェテラスのテラス席、それもとびきり日当たりのいい席を陣取り、珈琲を一杯。

はたまた明るめの服を着て公園に出かけ、芝生やベンチでめいっぱい光合成をするのがお決まりの光景。






アパルトマンがひしめく通りを歩いている時でさえも、たまたま通りと通りの間を縫い潜って太陽の細い日向が身体を包んでくれる瞬間に立ち会えば、迷わず道端で立ち止まり、目をつぶって太陽を愛でる。そのぐらいにパリの人たちにとって太陽は、貴重な存在だと言っても過言ではない。


夏を、太陽を、どうしても諦められれない。

長い雨曇の時期を有意義に乗り越える札をたくさん持っておくのは、この国で暮らすものとしての大切な知恵。

そんな時、熱帯モンスーン気候の国の食べ物で心を温めるのが一番。


コスモポリタンなパリには、ヴェトナムから移住して、もう何世代もこの地で根を張って暮らしている。ヴェトナムに加えて、中国系、ラオス、タイをオリジンとする多くの人々も、パリ南部の13区に集中して暮らし、人生を紡いでいる。

イタリー広場(Place d'Italie)から南方向に長く伸びる、Avenue d'Italie、 Avenue de Choisy、Avenue d'Ivryという3つの大通りを囲むブロックが大きな中華街となっており、この辺りにはアジア系のスーパーマーケットや食堂が軒を連ねており、その界隈に身をおくだけで全く別の国にいるかのよう。


マンゴスチン、龍眼、椰子の実、ドラゴンフルーツ、タイバジル、レモングラス、バイマックル。南国フルーツやハーブがいつだって華やかに軒先に並べられて。

艶々にグリルされ一列に美しく吊るされた焼豚専門店からの香ばしいかおり、ヴェトナム・サンドイッチ <バインミー>の店先にはいつだって長蛇の列。パリにいながら、何だって手に入る魔法の界隈。


特に中国系の人たちのコミュニティは強靭で、商店だけでなく、医者、弁護士など、中国人による中国人のための暮らしに必要なこと・ものは何でも揃っていて、生活していく上でどんなことでも中国語だけで完結できる社会が存在するようだ。事実、かなり年配の方で在住歴が長くとも、母国語の中国語だけで生活をしている人がたくさんいる。


そんな大通りの喧騒から少し離れたところに、逃避行に最適なヴェトナム食堂がある。



フランス人のソフィーが経営するこの食堂は、彼女が取り仕切るカフェと、ヴェトナム食堂の2つのスペースに区切られている変わった造り。昼時にはソフィーとお喋りしにくるカフェの常連客と、ランチを食堂に食べに来る人の2タイプに別れる。


常連客たちは入口付近の席でタバコをくゆらす彼女の側に座って、だいたいいつも四方山噺に興じている。タバコと酒で焼けたのか、しゃがれた声をもつソフィーになら、真昼間からパスティスをオーダーしたって大歓迎。そんな彼女のお人柄そのままの、大らかなムードを漂わせるカフェ。




食堂のほうは2人のヴェトナム系のかしまし娘が仕切っており、全ての調理とサービスは彼女たちに一任しているらしい。

おそらくこの食堂は昔々のその昔は、フレンチ・ビストロだったのだと思う。60年代あたりの典型的なタイル張りの床がそれを物語っている。フランス的な内装にヴェトナムの風が吹いた空間が、ハノイに旅した時に見かけたフランス植民地時代の建物にヴェトナムの調度品を設えた空間とイメージが重なり合う。フランスとヴェトナムは溶け合う美的要素を持っている。




小さな厨房で、美味しいものを次々に生み出すかしまし娘の2人。


流しの端にはPHO用のブイヨンを取った後の、役目を終えた牛骨が山のように積み重なっているのが見えた。ここのPHOが絶品なのも、頷ける。




モンスーンの風を運んで来てくれるこの食堂のお勧めの一品は、というと。

パリには星の数ほどヴェトナム食堂あれど、これまでここでしかお目にかかったことのない

<ハノイの海老天ぷら> (Beignets de crevettes de Hanoï)。

どうやらハノイの郷土料理らしい。




薄くスライスしたじゃがいも、さつまいもと、縦半分に切った殻付き海老をかき揚げにした一皿。甘み控えめなフランスのさつまいもが、全体の風味をまろやかにしてくれている。カリカリに揚がった天ぷらを数種類の香草と一緒にレタスで巻いて、ニョクマムのソースをつけて食す。すると心はハノイへ。







絹のように柔らかな朝陽と木漏れ日、寺院に立ち昇るお線香の煙、ホアンキエム湖のほとりのアオザイの仕立て屋、ドンスアン市場の熱気、路地の奥のそのまた奥に佇む秘密のカフェ、ブンチャー屋台の山盛りの香草と炭火焼の香り、駆け巡るシクロにそそぐ夜風。


ハノイを舞台に撮影されたあの美しくも麗しい映画を観て、突発的にハノイへと一人旅に出かけたいつかの記憶と五感がたちまち蘇る。









モンスーンの風吹く一皿の逃避行の帰りには、マンゴスチンでも買って、家でも南国の風を吹かせてみよう。

雨曇もなんのその。秋を纏って、冬を待とう。

太陽が恋しければ、メトロに乗ってパリのハノイに行けばいいのだから。





- Address -

Le Zen

11 Rue Bourgon

75013 Paris

FRANCE








- Film -

「夏至」トラン・アン・ユン監督

À la verticale de l'été / Mùa hè chiều thẳng đứng



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