第31話 中庭のディーヴァたち




 旧市街に行くには、家のすぐそばから相乗りタクシーに乗る。


 サラーム・アリコム、メディナ?(旧市街行きですか?)

 インシャアッラー(神の御意のまま)


 昔は運転手たちのこの答えにはいつも一抹の不安を覚えていた。責任を持って乗客を目的地まで送り届けるのが使命であるはずの彼らなのに。「そうですよ」と自信を持って答えて欲しい。そんな風に思っていたものだった。


 それが今では、この言葉にこそ真実を垣間見る気がしている。宇宙をまるごと内包するような奥深い響きがする気がするから。





 タクシーに乗り込むと、その日はタギヤ(イスラム帽)に黒々としたあごひげの運転手だった。車内ではコーランが流れている。それに合わせて彼も誦唱。


 鼻歌というものは能天気の象徴のようなものだと思い込んでいた。気分が最高潮の時に思わずもれ出てしまうような幸せの表れ。


 ある日、おかしな抑揚で歌を口ずさみながらいつになく上機嫌な仕事仲間に、何かいいことでもあったの?と聞くと。君はまだわかってないなあ、マラクシっていうのは、極限状態になると冗談を言ったりして大袈裟に振る舞うものなのだよ、との反応。そういう類の鼻歌もあるのかと妙に納得し、そしてついでにマラケシュっ子たちのことがまた少しわかった気にもなったり、ならなかったり。


 コーランを唱えることと鼻歌を同じにしてはいけないけれども。それでもコーランの響きが心を落ち着かせるということには、多くの人が共感するだろうと思う。たとえイスラム教徒ではなくても、そしてアラビア語がわからなくても。


 ここのところ夜なべ作業が連日続いていた。そんな朦朧とした頭でふらり乗り込んだのが、このコーランのタクシーだった。まるでマッサージを受けているような心地よさに、こちこちになった心身が溶解する。





 バブ・ドッカーラ(Bab Doukkala باب دكالة)。つまりドッカーラ地方へと続く道に面している門。ここから旧市街に入り5分ほどゆく。くねくねと小道を入った奥にたたずむ閑静な邸宅。そこにかつて暮らしていたフランス人女性がいた。ドゥニーズ・マッソン(Denise Masson)。1960年代にコーランをフランス語訳した人物。


 30代でモロッコに渡り、七聖人の街として知られるマラケシュの精神性に惹かれたという彼女。その後、60年もの間暮らすことになったこの地では、ラ・ダム・ドゥ・マラケシュ(la Dame de Marrakech)の愛称で慕われていた。









 1994年に93歳で生涯を閉じるまで暮らした彼女の終の住処は、現在では文化施設として公に開かれている。木々の合間から鳥たちがさえずる広い庭。それをぐるりと囲むリヤド造りのレモン色の建物の中には、天井を突き抜ける大きな椰子の木。優しさに溢れる雰囲気の中で写真や絵画、インスタレーション作品を愉しむ。







 去年の夏。ラマダンの日の夜にこの場所で開かれたAlsarah & The Nubatonesのコンサートは、まさに真夏の夜の夢のようだった。スーダン人の姉妹を中心としたグループで、ヴォーカルのアルサラーの容姿と言ったら、まるでイヴ・サン=ローラン・ミュージアムに展示されているマネキンがそのまま飛び出てきたみたい。


 迫力ある声量、美しいスーダンの言葉が夜風に乗って、空高くまで響き渡っていた。今宵は彼女のアラビア語にメディナ中の人が酔いしれているのでは? そんな風にさえ思った。





 モロッコでは音楽と言えば大衆音楽ばかりという印象だったのが、その後、マラケシュに移り住んだばかりのころに聴いたOUMの歌声の新鮮さをよく覚えている。にわかに出現し、今やこの国を代表する歌姫になった。


 自らの音楽を称してDariJazzとする彼女は、その文字通りにジャズやグナワ、ソウルやサハラの音楽など様々な要素をコラージュした旋律に乗せてDarija(モロッコのアラビア語)を紡ぐ。英語を習いたてのころに洋楽を夢中で聞いた人は少なくないかも知れない。それと同じようにして、彼女の歌詞から一体いくつの新しい言葉を覚えたことだろうか。


 先日、思いがけず彼女のアンプラグド・ライヴを見る機会を得た。やはりいつものこの同じ場所、マッソン女史の部屋の一角で。シンプルなパーカッション、コントラバスにウード。それに観客の女の子たちのダリジャでの大合唱と、マラケシュ名物のあの複雑なハンド・クラッピング。


 冬の夜空の下、一期一会の見知らぬ者同士が分かち合うひととき。アラビア語が音楽に乗って伝えるメッセージ。そこに混ざって、母国語話者たちの熱狂のお裾分けを享受する。





 神の言葉と言われるコーランのアラビア語 フスハー。今を生きる人々の今に生きる言葉 ダリジャ。マダム・マッソンのリヤドでは、こうして古今と聖俗、中東からサハラ以南までの、あらゆるアラビア語がこだまし続けている。


 誰にでも自分にとってのサンクチュアリがあるだろう。聖なる翻訳者が残してくれたこの場所は、同じくこの国の魅力に囚われた異邦人である自分にとっての、そんな空間のひとつだ。







- Address -

Riad Denise Masson

49 Derb Zemrane

40000 Marrakech

MAROC









- Music -

“Ya Watan”

Alsarah & The Nubatones

- Music - “Ah Wah”

OUM





Copyright (C) 2015 semsem All Rights Reserved.