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第19話 象牙の塔の空蝉

更新日:2021年4月28日




 もう10年以上も昔に読んだ書物からの印象が染み付いているようで、フェズ(Fès فاس)というイメージについて表すとき、「街」ではなくて「邑」と書いてみたくなる。それが旧市街を指すときには特に。


 深い意味はないけれども、現実の世界でフェズを知る何年も前に、文字の印象の方が先に刷り込まれてしまったのだと思う。あるいは、その始まりを8世紀まで遡ることができるこの地に、中世のままの時空間が存在し続けていることを期待しているからかも知れない。期待するということもないままに。







 3年ぶりのフェズだというのに、この1ヶ月の間に不思議と立て続けに2度訪れることになった。









 1度目は別の町に行くための中継地点としてバスを乗り換えただけで、降り立ってはいない。マラケシュから夜行バスに乗って翌朝に到着し、ターミナルのカフェで寝不足の態で朝食をとる。それからすぐに次の目的地に向かうバスに乗った。今やマラケシュからの直行便のフライトが安価で就航してはいるものの、どうしても日程が合わずバスを選ばざるを得なかった。片道9時間の道のり。


 2度目のチャンスが訪れたとき、すぐに飛行機の切符を手配した。今回の旅は、固有の技術を継承するフェズのテキスタイルを見聞するのが目的。以前はカサブランカでトランジットが必要だったり、高額で手が届かなかったりと選択肢になかなか入ることのなかった空の便。“移動の時間も含めてすべてが旅”というわけにもいかない時、こうして効率と利便を取って時間と体力を確保できるようになった。決められた曜日と時刻に、タイミングさえ合わせることができれば。


 14h40発。マラケシュからフェズへの便は、だいたい隔日で1本。少しわかりにくい奥まった入り口を通り、国内線専用の搭乗ゲートから飛び乗る。ぴったり1時間後の15h40にはフェズ=サイス(Fès–Saïss فاس سايس)空港に到着しているだろう。遅くとも17h00には典型的なフェズ風の造りのリヤドでミントティーを飲みながら一息つき、それからすぐにフェズ・エル・バリの中をさまようことになるだろう。





 座席に着くと、かごバッグに忍ばせていた本を開くも束の間、どうやらうたた寝してしまったらしい。はたと目が覚めると、機体はすでに着陸態勢に入っている。今までは9時間を要した場所が、今やたった1時間の距離に縮まってしまった。時空間に歪みが生じたかのごとく、忽然として接近したフェズ。長らくずっと邑であり続けた場所が、とうとう街になってしまったかのように。












 9000の小径、700の袋小路、14の門。フェズ・エル・バリと呼称される旧市街は、やっぱり邑のままだった。ファッシ(フェズっ子)の発する音はリズムも流れも、そして使われる語彙もすべてが謎めいている。路地が入り組む迷路のような構造もさることながら、言葉の響きだけでもすでに異郷に迷い込んだ事実を知らせてくれる。


 ちょうど10年くらい前にこの邑を初めて訪れたとき、道ばたで出くわした少年から邑歩きの秘訣を教えてもらった。石畳をよく見て、石が大きいところだけをたどって歩けば決して迷うことはない。モスクや霊廟、主要な場所に通じる道の石畳はすべて大きいのだと言う。


 小さいところを歩いているとしたら、それは民家への路地なのさ。













 それでもリヤドから出て少し歩いてみると、以前とはやはりどこか異なるということに徐々に気付き始めた。ブ・ジュルード門(Bab Boujloud باب بوجلود)周辺やふたつのメイン通り タラァ・クビーラ(Talaâ Kbira الطالعة الكبيرة)とタラァ・スギーラ(Talaâ Sghira الطالعة الصغيرة) には、ファッション・デザイナーが営むタイ料理のレストランや西洋風のカフェ、フランス人オーナーのコンセプト・ショップなどが続々と出現していて、街並み、雰囲気はすっかり様変わりしていた。スークの奥の奥、キサリヤの辺りも、おそらくは老朽化のために大々的にリノベーションされている。


 そして、路地のあちらこちらには道しるべになるような標識。あまり頼りにはならない石畳の目印をたどって歩いた時分とは違って、世界最大級の迷路とも言われるフェズ・エル・バリは、いまやその秘密を明かし始めたのらしい。








 「現代的」な街並みの出現。こうしてフェズまでの距離感は、単に時間的に短縮されただけではなくなった。今まで異次元にあった邑が実は自分が住む世界と地続きにあるという、当たり前ではあるけれども、それでもこれまでで初めて覚える不思議な感覚。


 そこはかつて、まるで網の目の迷宮だった。夢うつつのはざまでモワイヤン・アトラスを越えて、寒さに震えながら一晩を夜通し漂い続けてようやくたどり着く、薄ぼやけた中世の邑。日常的に黒魔術が行われていて、人々はテーブルいっぱいに小皿が並べられる王宮料理を食し、ミステリアスなアラビア語で話す誇り高き職人たちが、狭い工房のほのあかりの中、寡黙にじっと伝統を守っている。そんな幻想を大切に仕舞っておいた場所だった。














 1時間の先にある、決して遠くない存在となったフェズ。距離の感覚と間隔の変化の中で、新たに生まれ変わった世界。時々訪れ、この邑の移り変わりを感じること、それが今後の愉しみのひとつになりそうな予感に心が弾むのを感じた。


 香の匂いが漂う幽玄な細道。暗がりを抜けて歩を進めると、突然目の前に差し込む一筋の神聖な光。鍛冶職人が絶えず響かせるトンカントンカンという中世の音。それらがこの先もずっとそのままであることは、なぜだか強く確信している。










- Book -

“蜘蛛の家” ポール・ボウルズ

“草枕” 夏目漱石

“陰翳礼讃” 谷崎潤一郎


- Film -

“四次元” トリン・T・ミンハ

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